事務局 〒879-1506 | |||
大分県速見郡日出町3904-6 | |||
医療法人 久寿会 鈴木病院 | |||
TEL : 0977-73-2131 FAX : 0977-73-2132 | |||
mail : jimu@suzuki-hp.or.jp | |||
会長 | 上 野 浩 伸 | ||
副会長 | 加 賀 山 茂 | ||
幹事 | 佐 藤 雪 | ||
公共イメージ委員長 | 佐 藤 英 隆 |
例会日 | 火曜日 | 19:00 | |
会 場 | 日出町 | ホテル&リゾーツ別府湾 |
■ 出席報告 | 加賀山茂副会長 | ||
会員総数 | 19名 | ゲスト | 1名 |
会員出席数 | 10名 | ビジター | 0名 |
会員出席率 | 55.6%(10/18) | 出席者数 | 11名 |
前々回出席率 | (12月17日) 61.1%(11/18) |
修正出席率 | (12月17日) 61.1%(11/18) |
100%連続回数 | 0回 | 100%通算回数 | 375回 |
出席免除会員 | 山田滋彦会員、上野公則会員 |
● メイクアップ | |
事前 | |
事後 | 上野浩伸会長(1月25日 RLI出席) |
● 欠 席 | 秋吉尚康会員、穴井伸一会員 河野健二会員、宮﨑仁史会員 奥村元一会員、佐藤貴代会員 田村 悟会員、上野浩伸会長 山田滋彦会員 |
点鍾 | 19:00 |
ロータリーソング | 我等の生業 |
ゲスト | ・ディルキ ターラカ様 |
ビジター |
日出RC会長 上野 浩伸(代読 加賀山茂副会長)
皆さまこんばんは。本日は自分の健康管理が甘さからインフルエンザを患ってしまい、例会に出席かなわない状況で大変申し訳ございません。会長として当然の事でありますが100%ホームクラブ例会出席を目指して努めて参りましたが残念でございます。また本日、久しぶりの鈴木会員の卓話も楽しみにしておりましたがこちらも大変残念でございます。しかしながら会長不在時の代行を努める副会長である加賀山会員が現会長以上に大変しっかりとしておりますので本日は安心して療養しようかと思います。加賀山副会長、本日はどうかよろしくお願いします。また会員の皆様、例会出席率向上に向けてくれぐれも健康に留意をお願いします。
くにさきRC | 1月22日(水)の例会は『休会』します |
別府東RC | 1月23日(木)の例会は『例会場の都合』の為、『12:30~ホテルサンバリーアネックス』へ変更します |
1月30日(木)の例会は『会員お祝い会(喜寿・古希・還暦)』の為、『18:30~ホテルサンバリーアネックス』へ変更します | |
2月13日(木)の例会は『職場例会』の為、『12:30~別府市公会堂』へ変更します | |
別府北RC | 1月29日(水)の例会はありません |
2月12日(水)の例会は『職場例会』の為、『12:30~大分銀行宗麟館』へ変更します | |
大分城西RC | 1月29日(水)の例会は『新会員歓迎例会』の為、『18:30~場所未定』へ変更します |
2月26日(水)の例会は『夜の例会』の為、『18:30~ホテル日航大分オアシスタワー』へ変更します | |
大分中央RC | 2月 4日(火)の例会は『クラブ内研修会』の為、『12:30~四季』へ変更します |
2月11日(火)の例会は『休会』します | |
2月25日(火)の例会は『休会』します | |
大分臨海RC | 2月10日(月)の例会は『休会』します |
2月24日(月)の例会は『休会』します | |
大分RC | 2月11日(火)の例会は『休会』します |
2月25日(火)の例会は『休会』します | |
大分東RC | 2月13日(木)の例会は『休会』します |
2月20日(木)の例会は『夜の会』の為、『18:30~場所未定』へ変更します | |
2月27日(木)の例会は『休会』します | |
大分南RC | 2月14日(金)の例会は『職場例会』の為、『12:15~昭和電工武道スポーツセンター』へ変更します |
2月28日(金)の例会はありません | |
杵築RC | 2月14日(金)の例会は『休会』します |
2月21日(金)の例会は『職場例会』の為、『うみたまご』へ変更します | |
2月22日(土)は『大分第2グループIM開催14:00~若栄屋』です | |
3月20日(金)の例会は『休会』します | |
大分1985RC | 2月17日(月)の例会は『クラブ内研修会・夜例会』の為、『19:00~コンパルホール』へ変更します |
2月24日(月)の例会は『休会』します |
今月1月号のロータリーの友 卓話の泉より「女の機嫌の直し方」の記事が掲載されてました。概略は、大学でAIの研究をしている理系の学生が、「男女脳の違いによる女の機嫌の直し方」をテーマに卒業論文を執筆中。データ収集のために、結婚式場でアルバイトをすることになり、あるカップルの結婚式を担当することに。そこでのいろんな事件が起きます。仕事の合間に読んでみたらいかがですか?
鈴木貫史会員(T): | 昨年12月17日と本年1月7日の2回欠席致しました、久しぶりの例会出席となりました。また友人が誕生会をしてくれました。 |
---|---|
本多和夫会員(10): | 昨年の11月から例会欠席が続いておりました。久しぶりに出席することができ、うれしく思います。また、今日はちょうど私の誕生日と重なりました。これらの喜びを皆さんと分かち合いたいと思い、ニコボックスいたします。 |
---|---|
坂本龍馬を愛する歴女たちを含め、勉強を続け、研究し、龍馬の歩んだ道、成したことを愛するたくさんの同好の方々が居ます。私もその一人であります。平成27年1月27日の当クラブで卓話『日本の夜明けから最新医療にまで龍馬は如何に寄与したか?』で龍馬について紹介も致しました。 今回、『坂本龍馬の意思を引き継いだ北垣国道(くにみち)の生涯』の卓話をする機会を得ました。 2018年11月30日、旭川市大雪クリスタルホールで第53回日本高気圧環境・潜水医学会学術総会が開催され、高気圧酸素治療管理医(専門医)である私は、単位取得の事もあり、出席致しました。そのクリスタルホール文芸コーナーに『北垣国道の生涯と龍馬の影』(北国諒星著)を見つけ、心おどる気持ちで購入しました。 今回の卓話は、この著書の一部を紹介致します。
龍馬が蝦夷地開拓の夢を語り、その意思を引き継いだ志士が多数いました。北垣国道(晋太郎)の他にも
千葉重太郎 (*)開拓使に在職、千葉道場剣豪、鳥取藩・開拓使・京都府に足跡
大山重(渡辺剛八) 開拓使に在職、亀山社中・海援隊、屯田兵創設に情熱を傾ける
山本洪堂(洪輔) 開拓使に在職、亀山社中・海援隊・振援隊、開拓使で医師として足跡
高松太郎(龍馬の甥、坂本直に改名) 亀山社中・海援隊 函舘裁判所権判事
(*)ここでいう使とは今でいう省にあたる
なかでも龍馬と師弟関係でもあり、強い同志であった千葉重太郎と共に北垣国道もまた龍馬の意思を引き継ぎ、戊辰戦争後の活躍の場を北海道開拓に求めていたのでした。
北垣国道(晋太郎)は、維新史、北海道開拓、京都復興史の上だけでなく、地方行政史ないしは日本史の上で大きな役割を果たしており、人間的にも魅力溢れるものを持っていた。しかし、これまでは、あまり世に知られ、評価されて来なかったようです。国道のかかわった①生野の変・戊辰戦争、②北海道開拓(鉄道建設などを含む)、③京都復興(琵琶湖疏水事業ほか)の三点を主に紹介する。
北垣国道は青年の頃、尊皇壊夷思想の影響を受け、文久三年(1863)の生野の変に参加したが失敗、いったんは郷里・但馬国(兵庫県)能座村で自殺を図る、という特異な経歴を持つ。母に諭され、自殺を思い止まると、元治元年(1864)頃には京都をはじめ、各地にいた勤皇の志士たちと広く交流。とくに長州藩・鳥取藩筋に太いパイプを築いた。坂本龍馬との接点ができたのも、この頃のことである。二人は、蝦夷地開拓の夢を共有してもいた。
慶応四年(1868)、戊辰戦争が始まると、国道は新政府側に立って参戦し、活躍した。凱旋後は、長州藩筋の強いバックアップも得て、官界で活躍する道を選択。新政府入りして弾正台、鳥取県の役人などを経たあと、明治四年(1871)八月から三年間ほど、開拓使に出仕した。
当時、盟友の龍馬は、すでに死去していた(慶応三年十一月の京都・近江屋での龍馬暗殺事件)が、国道の胸中には、かつて龍馬と蝦夷地開拓を語り合った当時の青雲の志が、熱く蘇っていたことだろう。
その後、京都府など本州府県の県令・知事として活躍し、とくに東京遷都後、極度に疲弊していた京都では、有名な琵琶湖疏水工事への挑戦などを通じて、地域の復興を強力にリードした。
11年半にわたり在職した京都府知事を退任すると、今度は内務省次官のポストを断って、再び、思い入れのある北海道開拓の仕事を選択。第四代北海道庁長官となって札幌へ赴任した。以降、この地では4年間ほど、開拓計画の策定、鉄道建設、稲作の定着・拡大などに敏腕を振るい、今日の北海道の礎を築いた。北海道庁を去った後も、拓殖務省次官、貴族院議員として中央政官界で活躍し、その後も民間の立場で、道内の函樽鉄道敷設などに貢献している。
時代はさかのぼるが、北垣国道は11年半にわたり京都府知事を務め、京都復興に大きな業績をあげた。琵琶湖疏水は、その頃、国道が手がけた代表的な事業の例であり、優秀な若手技術者・田辺朔郎らを登用して成功したのだが、意外なことに、この頃の彼は、京都・同志社への支援などを通じて、NHKテレビ大河ドラマ『八重の桜』でおなじみの新島襄、新島八重(旧姓山本八重)や、八重の兄山本覚馬(元会津藩士)らとも接点があったのだ。言い換えれば、北垣国道は彼らの行動を、積極的に支援していた。前京都府知事・槇村正直(長州藩出身)の時代に、山本覚馬は槇村の参謀役(同府顧問)として京都で重きをなしており、大阪で思うように活動できなかった新島襄は、彼らを頼って京都入りした。ちょうどこの頃、八重も兄覚馬を頼って京都入りし、ここで新島襄と運命的な出会いを果たした。まもなく槇村は京都府庁を去って、後任の京都府知事には北垣国道が就任、京都入りしたので、同志社支援などを通じて、彼らとの縁も生まれたというわけである。また、琵琶湖疏水工事の記録画を通じて、北垣国道と土佐人の画家(龍馬の師でもあった)河田小龍との接点もあり、強い龍馬との繋がりが認められた。
山本覚馬(1828-1892) | 新島襄(1843-1890) | 田辺朔郎の銅像 |
琵琶湖疎水 南禅寺水路閣 | 琵琶湖疎水記念館 |
以上が『坂本龍馬の意思を引き継いだ北垣国道(くにみち)の生涯』著書よりの抜粋であります。
私は旭川市を2度訪れました。1度目は夏休みに家族で北海道(旭川を含め函館、小樽、札幌、滝川、富良野)と旅をしました。今回は酷寒の11月29日、学会で旭川を訪れ、翌日午後、羽田~大分へとわずか1泊の旅でした。
雪の積る大雪クリスタルホールより空港に向かうとき田畑が開けてきました。「この地の農作物は何が主な物ですか、トウモロコシですか?」と尋ねると「ここは稲作(米)が中心です。」と言われました。
この事は、この本で紹介された北海道開拓、屯田兵の事、アイヌの事、そして鉄道建設と稲作の拡大定着なども北垣国道らの開拓魂、言い換えれば龍馬の魂が成しえたものであるとも言えるでしょう。