事務局 〒879-1506 | |||
大分県速見郡日出町3904-6 | |||
医療法人 久寿会 鈴木病院 | |||
TEL : 0977-73-2131 FAX : 0977-73-2132 | |||
mail : jimu@suzuki-hp.or.jp | |||
会長 | 本 多 和 夫 | ||
副会長 | 臼 杵 徳 二 | ||
幹事 | 上 野 浩 伸 | ||
公共イメージ委員長 | 秋 吉 尚 康 |
例会日 | 火曜日 | 19:00 | |
会 場 | 日出町 | 別府湾ロイヤルホテル |
■ 出席報告 | 吉弘秀二会員 | ||
会員総数 | 21名 | ゲスト | 1名 |
会員出席数 | 10名 | ビジター | 0名 |
会員出席率 | 50.0%(10/20) | 出席者数 | 11名 |
前々回出席率 | (10月17日) 50.0%(9/18) |
修正出席率 | (10月17日) 55.6%(10/18) |
100%連続回数 | 0回 | 100%通算回数 | 373回 |
出席免除会員 | 山田滋彦会員、脇屋貴夫会員 |
● メイクアップ | |
事前 | |
事後 | |
● 欠 席 | 穴井伸一会員、阿南亀義会員 原田順二会員、石和桂子会員 河野哲章会員、森 博美会員 奥村元一会員、佐藤 雪会員 田村 悟会員、脇屋貴夫会員 矢野正二郎会員 |
点鍾 | 19:00 |
ロータリーソング | 君が代、奉仕の理想 |
ゲスト | 魚住修三様(日出町郷土史家) |
ビジター |
会長 本多 和夫
みなさん、こんばんは。
今日は日出町郷土史家 魚住修三様の卓話です。お忙しい中、日出ロータリークラブにお越しいただきありがとうございます。参加者が少なくて申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
さて、先々週の例会では、丁度、米山記念奨学生卓話と重なったため、触れることができなかったのですが、例会が行われた10月24日は、世界ポリオデーでした。ポリオ撲滅はロータリークラブとして大きな事業の1つです。そこで、今日の会長の時間は、ポリオについてお話したいと思います。
ポリオとは、ポリオウイルスが人の口の中に入って、腸の中で増えることで感染する病気でヒトにのみ感染を起こします。増えたポリオウイルスは、便の中に排泄され、この便を介してさらに他の人に感染します。年齢としては、5歳までの乳幼児がかかることが多い病気です。ポリオウイルスに感染しても、感染者の90〜95%は病気としての明らかな症状はあらわれません。残りの約5%が、風邪のような症状で終わり、1〜2%の患者では引き続き髄膜炎を起こします。定型的な麻痺型ポリオを発病するのは感染者の0.1〜2%で、その場合、四肢の麻痺が出現します。麻痺は下肢に多くみられますが、嚥下、発語、呼吸障害が認められることもあります。多くの場合、麻痺は完全に回復しますが、発症から1年経過しても麻痺あるいは筋力低下が残る症例では、永続的な後遺症を残す可能性が高いとされています。現在、確実な治療法はなく、ワクチンによる予防が重要です。ワクチン接種により、一人の子どもを生涯、ポリオから守ることができます。
ロータリーは、1979年にフィリピンの子どもたちにポリオ予防接種をはじめて以来、全世界でポリオの発症数を99.9パーセント減らすことに成功しています。ロータリーとビル&メリンダ・ゲイツ財団が共催して世界ポリオデーにあわせて開催された今年の第5回世界ポリオデー特別イベントでは、ポリオの今年の症例数はアフガニスタン7件、パキスタン5件の計12件であったと報告され、この数字は2016年と比較すると70%の減少で、歴史上、最も少ない数字であったとのことです。今、あと少しでポリオを撲滅できるところまできていますが、撲滅を完全に成し遂げるには、会員の方々の支援が欠かせません。
支援にはさまざまな方法があります。寄付金は、一番の支援ですが、ロータリーのポリオ撲滅活動を多くの人に紹介することも立派な支援だと思います。また、ロータリーのクレジットカードを利用する事によって利用額の0.3%がポリオ撲滅の活動資金となります。考えるだけではなく“一人ひとりにできること”を実行することが大切だと思います。今日のこの話がポリオ撲滅の助けとなれば喜ばしいことです。
以上で会長の時間を終わります。
大分RC | 11月14日(火)の例会は『夜間例会』の為、『18:30~大分オアシスタワーホテル』へ変更 |
11月21日(火)の例会は『休会』します | |
くにさきRC | 11月15日(水)の例会は『夜例会』の為、『19:00~場所未定』へ変更 |
11月22日(水)の例会は『文珠仙寺秋季大祭でボランティア活動』の為、『25日(土)時刻未定』へ変更 | |
大分東RC | 11月16日(木)の例会は『夜の例会』の為、『18:30~ザ・ブリッジ』へ変更 |
11月23日(木)の例会は『休会』します | |
中津平成RC | 11月16日(木)の例会は『18:30~グランプラザ中津ホテル』へ変更 |
大分南RC | 11月17日(金)の例会は『夜の親睦例会』の為、『18:30~場所未定』へ変更 |
11月24日(金)の例会は『休会』します | |
別府RC | 11月17日(金)の例会は『第3回クラブ全員協議会』の為、『18:30~両築別邸』へ変更 |
11月24日(金)の例会は『シニアとの夕べ』の為、『18:30~両築別邸』へ変更 | |
大分臨海RC | 11月20日(月)の例会は『新会員歓迎例会』の為、『18:30~場所未定』へ変更 |
竹田RC | 11月21日(火)の例会は『17日(金)~19日(日)まで竹楽があり全員出席』の為、『休会』します |
宇佐RC | 11月23日(木)の例会は『休会』します |
大分1985RC | 11月27日(月)の例会は『クラブ内研修会』の為、『12:30~コンパルホール』へ変更 |
別府東RC | 11月30日(木)の例会は『夜例会』の為、『18:30~ホテルサンバリーアネックス』へ変更 |
佐藤英隆会員(S): | 本日、魚住先生の外来卓話、仕事で遅くなりました。お話し楽しみにしています。 |
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鈴木貫史会員(W): | 魚住先生に卓話を御願いしたところ、快く本日を迎えました。宜しく御願いします。また、私ども医療法人の「有料老人ホームすずらん」起工式を立派に行って頂きました上野公則社長(上野建設)に感謝申し上げます。 |
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上野公則会員(S): | 11月5日(日)医療法人 久寿会(鈴木会員)様の老人ホームの建設を弊社が請け負い、輝かしい晴天のもと起工式を行うことができました。工事の安全と久寿会様のご発展をご記念致します。 |
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石井邦猷について
■石井家の住所と菩提寺
「円明山 妙光寺(日蓮宗)」
内堀の日豊線に面した石垣と石段の上にある寺。慶長11年、日立上人が法華宗の道場にと開基。後に恒川十右衛門が草庵を再建。本尊は「日蓮上人の法唱題七字・多宝如来・釈迦如来」。
本堂右前に「清正公堂」がある。加藤清正は法華宗を信仰し「南無妙法蓮華経」の旗を掲揚。熊本の本妙寺から御分霊。
党内には、「鬼子母神」があり、お産・育児の神様で、参拝者も多い。
隣に「七面堂」がある。竜神様で昔は、雨乞いに来る参拝者が多かった。
寺の境内には、墓地があり、石井家・宇佐美家(南郡屋)・苅谷家(俊介氏宅)など多い。
現在の住職は、太田誠照師。
■石井邦猷の略歴と当時の出来事
年号 | 西暦 | 年齢 | 事項 |
---|---|---|---|
天保8年 | 1837 | 1歳 | 6月13日、日出藩士石井逸馬(邦資)の長男として八日市423番屋敷に生まれる。吉良・脇ロ隣家(現在の日出郵便局西の空地辺り)。名は才助、通称虎雄、後に改名して邦猷(くにみち) |
天保13年 | 1842 | 6歳 | 中ノ丁の米良東嶠(めらとうきょう)先生の家塾に通う。 |
嘉永3年 | 1850 | 14歳 | 父逸馬、江戸留守居役(70石)に。横田と同居。 |
嘉永5年 | 1852 | 16歳 | 萬里没。父41歳没し、堀の日蓮宗「妙光寺」に葬る。 |
安政5年 | 1858 | 22歳 | 8月、日出藩校「致道館」創立し、東嶠教授就任。 |
文久3年 | 1863 | 27歳 | 脱藩して信州松代藩の蟻川塾で西洋兵法を学ぶ |
慶応2年 | 1866 | 30歳 | 藩主命で帰藩し、日出藩士に洋式操練を教える。瀧吉弘、米良悔堂、麻生貞樹、鶴崎で伝習する。 このとき、「邦猷」と改名したのではないか?後の養子「菊次郎」、千葉で生まれる。 |
慶応3年 | 1867 | 31歳 | 15代藩主俊程(としのり)隠居し、弟俊愿(としまさ)31歳、16代藩主となる。8月に俊程35歳没。 10月14日、大政奉還。朝廷、王政復古の令。 12月25日江戸を発ち上洛。邦猷、指揮する。 |
慶応4年 | 1868 | 32歳 | 1月13日、高台寺着き本陣。16日朝廷へ。東嶠参謀となり、邦猷が指揮する。 2月帰藩。給人格15石4人扶持、西洋隊教師となる。日出二の丸寮にて士官養成。麻生・瀧・宮崎・徳永・土屋、助教師となる。伊藤松太郎致道館教授に。 |
明治元年 | 1868 | 33歳 | 9月8日、「明治」となり江戸は「東京」となる。 |
明治2年 | 1869 | 33歳 | 6月、「藩籍奉還」。木下俊愿「日出藩知事」となる。 8月、藩政改革に着手。邦猷、公選「大参事」となる。 邦猷、天皇より陸軍出仕命令。「兵部権少丞」に。 |
明治3年 | 1870 | 34歳 | 農民年貢一揆、藤原陣の辻に終結し、庄屋襲撃。知事の俊愿説諭。大参事は瀧吉弘(廉太郎の父)。 |
明治4年 | 1871 | 35歳 | 3月1日、米良東嶠61歳没。松田清渓家老に。 7月14日、廃藩置県。「日出県」となり俊愿知事免ぜられ、瀧吉弘大参事が運営する。致道館廃止。 7月、邦猷、陸軍少佐に任ぜられる。 8月9日、廃刀断髪令。 8月22日、木下一家東京へ移住。 11月14日、日出県廃止、「大分県」となり、参事に森下景端。邦猷、陸軍中佐に昇進。この時、西郷参議、大山少将、山県大佐、乃木少佐、児玉と桂中尉。 |
明治5年 | 1872 | 36歳 | 4月、邦猷従六位。 8月、邦猷軍部を去る。 9月、学制。瀧吉弘、大蔵省十等に任じ、土屋元成は陸軍教官将校として単身上京。 10月、邦猷佐賀県参事。 11月9日、太陽暦。 11月28日、徴兵令。 |
明治6年 | 1873 | 37歳 | 1月15日、松屋寺境内の米良東嶠先生墓前に石灯籠一基寄進。邦猷、内務省に出任する。 |
明治7年 | 1874 | 38歳 | 内務省警保局の六等出任。 2月、日出城天守櫓競売。江藤新平の佐賀の乱。 11月28日、邦猷の竹馬の友、米良悔堂37歳、大分県参事に昇進。 |
明治8年 | 1875 | 39歳 | 伊藤松太郎59歳没。麻生貞樹ら「朝陽社」設立。 |
明治9年 | 1876 | 40歳 | 1月15日、致道館のあとに「暘谷女学校」創立。 3月16日、大分県参事米良悔堂39歳没、従六位。邦猷は正六位、内務権大丞に昇進する。 10月24日、大分師範学校開校、麻生貞樹初代校長就任。 |
明治10年 | 1877 | 41歳 | 1月30日、西南の役勃発。邦猷、権中警視に昇格。麻生貞樹負傷。長沢常山大分師範学校2代目校長就任。 12月、邦猷、勳五等双光旭日賞授与、少警視内務権大書記官の昇格。当時、米一升5銭。 |
明治11年 | 1878 | 42歳 | 1月、大神・川崎・藤原・日出合併し用務所を致道館あとに置き、麻生貞樹区長就任。 5月14日、大久保利通暗殺。 11月15日、速見郡役所を上町宇佐美春三郎宅に置き、初代郡長長沢常山。 |
明治12年 | 1879 | 43歳 | 1月、横津神社社殿竣工。邦猷、監獄局長心得昇格。 |
明治13年 | 1880 | 44歳 | 邦猷、中警視に昇格し、内務大書記官を兼任する。 4月15日、木下俊愿44歳東京没。日出警察署、分署となり杵築分署は廃止し、日出分署に吸収。 |
明治14年 | 1881 | 45歳 | 邦猷、監獄局長に昇格し、従四位授与される。 |
明治15年 | 1882 | 46歳 | 学令改正。暘谷学校に初等科・中等科・高等科。7月、宇佐美春三郎、帆足亮吉、県会議員再選す。 |
明治16年 | 1883 | 47歳 | 1月、葉書1銭。 10月5日、帆足亮吉49歳没。 |
明治17年 | 1884 | 48歳 | 深江住吉神社一の鳥居、十二等書記米良亮撰書 |
明治18年 | 1885 | 49歳 | 4月18日、邦猷3代目三重県令(知事)就任。 12月、伊藤博文初代内閣総理大臣となる。 日出の上仁王で、日出最初のみかん栽培始まる。 |
明治19年 | 1886 | 50歳 | 1月、宇佐美春三郎県会議員三選。 7月、豊州新報創刊。 10月12日、木下俊敦85歳東京で没。 |
明治20年 | 1887 | 51歳 | 4月、小学校令実施、暘谷尋常小学校と改称、4年制に。日出村に高等小学校創立、4年制に。 武内貞蔵、宇和島運輸と日出港に旅客貨物運輸始める。 |
明治21年 | 1888 | 52歳 | 6月29日、三重県知事→佐賀県知事に就任。 8月8日、米良東嶠の弟、石操(せきそう)73歳没。 12月24日、土屋元成(元作の父)43歳没。 |
明治22年 | 1889 | 53歳 | 2月、大日本帝国憲法発布。 4月、市町村制実施。大分県、9町1828村→14町265村に合併。日出村→日出町、杵築村→杵築町。 4月、議員選挙。 6月、大分新聞創刊。 12月25日、邦猷、元老院議官(後の貴族院議員)となる。 |
明治23年 | 1890 | 54歳 | 邦猷、錦鶏間祗候(きんけいのましこう・勲三等以上)となる。 7月、第一回衆議院選挙、宇佐美春三郎当選。 9月、西教寺横の「神明神社」若宮に移転する。 |
明治24年 | 1891 | 55歳 | 4月、第一回郡会議員選挙(速見郡定員20人) 7月、日出町裏町にキリスト教伝道所できる。 8月、府県制できる。瀧吉弘、直入郡長で竹田へ。 |
明治25年 | 1892 | 56歳 | 2月、衆議院選挙あり、宇佐美春三郎敗れる。 |
明治26年 | 1893 | 57歳 | 1月、大分銀行創立。横津神社鳥居、元家臣ら建立。 2月2日、従四位勳三等石井邦猷57歳没。法名「邦光院殿猷資日諡大居士」位牌は日出「妙光寺」。菩提寺は港区麻布飯倉「日蓮宗広栄山一乗寺」。 |
明治36年 | 1903 | 没後10年 | 12月2日、邦猷の妻コウ(幸)没。 |
大正4年 | 1915 | 没後22年 | 養子菊次郎49歳、第4次大隈内閣外務大臣就任。邦猷・コウには子供なく、養子菊次郎、家を継ぐ。 |
現在 | 大田区田園調布、邦猷の曽孫石井正夫氏(弁護土)。 |
■石井邦猷と当時の殿様・日出藩士
氏名 | 生年 | 卒年 | 年齢 | 自宅 | 師・学校 |
---|---|---|---|---|---|
帆足萬里 | 安永7(1778) | 嘉永5(1852) | 75 | 三の丸 | 大成・欄室 |
吉良子礼 | 寛政6(1794) | 文政6(1823) | 30 | 八日市 | 萬里 |
13代木下俊敦 | 享和2(1802) | 明治19(1886) | 85 | 城内 | 萬里 |
米良東嶠 | 文化8(1811) | 明治4(1872) | 61 | 中の丁 | 萬里(萬里の第一の高弟) |
米良石操 | 文化13(1816) | 明治21(1888) | 73 | 中の丁 | 萬里 |
伊藤松太郎 | 文化14(1817) | 明治8(1875) | 59 | 今村 | 萬里(致道館2代教授) |
松田清渓 | 文政5(1822) | 明治36(1903) | 82 | 二の丸 | 萬里(日出藩最後の家老) |
宇都宮健哉 | 文政5(1822) | 明治31(1898) | 77 | 北大神 | 萬里・東嶠 |
利光徳太郎 | 文政9(1826) | 明治10(1877) | 52 | 佐尾 | 萬里・東嶠 |
14代木下俊方 | 天保元(1830) | 安政元(1854) | 25 | 城内 | 萬里・東嶠 |
15代木下俊程 | 天保4(1833) | 慶応3(1867) | 35 | 城内 | 東嶠・致道館創立 |
帆足亮吉 | 天保6(1835) | 明治16(1883) | 49 | 三の丸 | 萬里・淡窓 |
16代木下俊愿 | 天保8(1837) | 明治13(1880) | 44 | 城内 | 東嶠(日出藩最後の殿様) |
石井邦猷 | 天保8(1837) | 明治26(1894) | 57 | 八日市 | 東嶠 |
麻生貞樹 | 天保8(1837) | 大正8(1919) | 83 | 堀 | 東嶠(初代大分師範校長) |
米良悔堂 | 天保9(1838) | 明治9(1877) | 39 | 中の丁 | 東嶠・致道館(長男) |
長澤常山 | 天保10(1839) | 大正6(1917) | 79 | 三の丸 | 東嶠(初代速見郡長) |
加藤賢成 | 天保11(1840) | 大正9(1920) | 81 | 東裏町 | 萬里・東嶠・致道館・万年 |
瀧 吉弘 | 天保13(1842) | 明治37(1904) | 63 | 三の丸 | 萬里(廉太郎の父) |
米良亮蔵 | 天保14(1843) | 明治35(1902) | 60 | 中の丁 | 東嶠(次男) |
土屋元成 | 弘化2(1845) | 明治21(1883) | 43 | 三の丸 | 東嶠(元作の父) |
宇佐美春三郎 | 弘化2(1845) | 明治27(1895) | 50 | 上町 | 東嶠(最初の衆議院議員) |
石井邦献と同年が16代俊愿・麻生貞樹。1才年下が米良悔堂(東嶠長男)。2才年下が長澤常山。5才下が瀧吉弘(廉太郎の父)。多くの仲間がいた。
邦献が6才の時、萬里先生は中の丁の家塾を米良東嶠に託し、南畑の目刈に私塾を開いたので、邦献は中の丁の東嶠先生の塾で学んだ。
邦献が22才の時、藩校「致道館」が開校。上の年齢制限がないから多分入学したと思われる。
27才の時、信州松代藩の蜷川塾で西洋兵学を3年間学んだ。「脱藩して」とあるが、15代藩主俊程公が西洋軍隊にするため、派遣したと思われる。
30才の時、俊程公は瀧吉弘・米良悔堂・麻生貞樹らを鶴崎の細川藩に派遣し、西洋操練を学ばせ、邦献を帰藩させ、西洋軍隊を組織編成した。
33才の時、明治天皇の命令で上京し、陸軍の幹部となり、35才で少佐中佐と栄進したが、36才の時、西郷石井は「藩兵」を、山県は「皆兵」をと、割れて敗れ、軍を去り、佐賀県参事となった。
37才の時、、佐賀を去り、内務省の警保局(警視庁の前身)に転進。上京の時、師の米良東嶠先生の墓前に石灯籠1基を寄進した。
■日出藩西洋軍隊
30才 慶応2年 15代俊程、兵制改革のため邦猷を帰藩させる。
31才 慶応3年 16代俊愿、江戸から京都御所へ。邦猷ら護衛し、指揮する。
33才 明治2年 藩籍奉還のため、俊愿は日出藩知事に、邦猷は民選の大参事に。
■陸軍
33才 明治2年 朝廷より陸軍出仕命令。上京。
35才 明治4年7月、陸軍少佐。11月陸軍中佐。(日本最初の陸軍中佐)
※参議西郷隆盛、少将大山巌、大佐山県有朋、少佐乃木希典、
中尉児玉源太郎、中尉桂太郎、・・・。
※兵制でもめ、西郷・石井は「藩兵制」を、山県は「皆兵制」を。
36才 明治5年4月、従六位。8月、西郷と共に陸軍を去る。10月、佐賀へ。
佐賀県参事(今の副知事)。
■警察畑に転身
37才 明治6年 佐賀を去り、内務省に出仕。
38才 明治7年 警保局(警視庁の前身)に出仕。
40才 明治9年 内務権大丞。
41才 明治10年 権中警視・勲五等双光旭日章。少警視内務権大書記官。
43才 明治12年 監獄局長心得。
44才 明治13年 中警視兼内務大書記官。
45才 明治14年 監獄局長。
■県知事
49才 明治18年 第3代三重県令。途中、名称替り三重県知事。
52才 明治21年 第2代佐賀県知事。
■元老院
53才 明治22年 元老院議官(後の貴族院議員)。
■非職
54才 明治23年 錦鶏間祗候(きんけいのましこう・勲三等以上の者)。
■死去
57才 明治26年2月2日没。従四位勲三箸。青山墓地葬。※日清戦争の前年であった。
瀧 廉太郎について
■瀧家を継いだ人々
①瀧五郎左衛門俊吉(紀伊藩士 初代延俊の小姓 山奉行 物頭280石、四天王(恒川、浅野、山田、瀧) 75才歿、2代俊治、龍泉寺)
②瀧助之進吉明(兄久米之助17才早世。弟助之進嗣ぐ 物頭28O石、妻長澤市立丞の娘、33才江戸に歿、3代俊長)
③瀧政之進吉繁(15人扶持 目付 物頭 家老330石、妻は長澤平八郎の娘、56才歿、6代長保)
④瀧五郎左衛門暉吉(7人兄弟タキ・権之助・五郎吉・ノモ・熊三郎・シュン、近習 馬廻 目付 家老280石、天明5年、11代俊懋)
⑤瀧助之進吉祐(ウメ・カネ・静磨(小山へ養子)、17才部屋住 9代俊泰 近習 190石、妻は浅野貞勝の娘、41才歿、11代俊懋)
⑥瀧倉之進吉亨(廉太郎曾祖父、3人兄弟吉亨・金吾・吉知、脇蘭室門人、萬里と学友、近習 郡代 物頭170石、36才歿、11代俊懋)
⑦瀧善十郎吉知(吉亨の弟、近習 白井勇記 詰人格 勇記吉知 物頭190石、妻は菅沼権右衛門娘、文政10年49才歿、11代俊懋)
⑧瀧平之進吉惇(廉太郎の祖父、吉弘の父、13代俊敦近習 給人 郡代 目付 藩政改革家老300石、妻は佐賀の関早汲日女神社幸外記宮司の二女「ミチ」文久3年66才歿、15代俊程)
⑨瀧賢之進吉韶(廉太郎の伯父、吉惇の二男、吉弘の兄、俊敦の子ども付、嘉永6年23才歿)
⑩瀧吉彰(廉太郎の伯父、吉惇の四男、吉弘の兄、大吉の父、妻は十市石谷の四女「マツネ」後改名「千代」大吉出生後離別し小野吉人と再婚、吉彰も再婚し後妻は長澤城之助二女「キク」後「ノブ」、慶応元年27才没、ノブは吉彰死後角市兵衛に再婚)
⑪瀧吉弘(廉太郎の父、吉惇の五男、大参事、中央官僚、大分郡長、直入郡長、妻は7代吉知の長男白井直之進の長女「マサ」、吉弘は廉太郎死後1年の明治37年63才大分市で没し萬壽寺)
⑫瀧大吉(吉彰23才の長男、吉弘の嫡子となり夫妻が育てる、建築設計家、廉太郎を東京に呼ぶ、妻タミは土屋元成の長女、いとこ結婚、廉太郎が留学中の明治35年42才で急歿)
⑬瀧孝三郎(吉弥三男、廉太郎の弟、京大勤務、妻は土屋元作長安「モト子」バイオリニスト、長男弘正を生む、モト子没、使用人と再婚し知行・真生が生まれる、異母兄弟)
⑭瀧知行(孝三郎の二男、京都在住、平成23年大分から墓碑移設、71才)
⑮ ? (14代は弘正のはず、先年没。弘正に長男がいる、15代に。
※14代瀧知行氏は、横浜の長男弘正氏の家族と交流し、親密になるとよい。兄弟みんなが、仲良くすることが一番である。
■瀧廉太郎の家族(弟2人 姉2人 妹3人)
①長女リエ(利恵)
明治3年12月1日、日出三の丸(現日出幼稚園)に生まれる。利口な子。
明治23年5月31日、東京麹町で脳溢血で没。21才。青山埋葬。この時、廉太郎麹町小学校4年生の時。
昭和6年夏、東京から大分市金池の萬壽寺に祖母ミチとリエの遺骨を遷す。死後、同年8月に5女トミが生まれる。
②二女ジュン(順)
明治9年、東京で生まれる。宮崎県の医師生田勇と結婚したが、父吉弘が離婚させる。以後、両親と暮らし独身。
大正元年9月9日大分で没。37才。萬壽寺に火葬。
③長男廉太郎
明治12年8月24日、東京府芝区(現港区)南佐久間町2丁目18番地毛利邸内で生まれる。
東京一横浜一富山一東京一大分一竹田一東京一ライプチッヒ一東京一大分。
明治36年6月29日、大分市稲荷町の自宅で没。大分市金池の萬壽寺に火葬。
④三女スミ(淑)
明治15年、横浜で生まれる。大吉の母千代が杵築の小野吉人と再婚し、生まれた長男隆(大吉とは異父弟・大分県庁勤務)がスミと結婚。スミの長女マン(万)は2女を生む。マンの長女は高松へ嫁し、二女喜代子は大分の浅野氏に嫁す。萬壽寺の瀧の墓守をしていたのは大分市大手町にいたスミの孫浅野喜代子。スミは明治43年、2女出産後のひだち悪く、大分市下市町で29才の若さで没。クリスチャンで上野の墓地に葬。
⑤二男節次郎
明治17年、横浜伊勢山官舎で生まれる。大分中学卒。上京して勉学。砲兵となり小倉に入隊。日露戦争出征したが落馬負傷で野戦病院へ。病気して、明治42年6月2日大分市稲荷町の自宅で26才没。萬壽寺に火葬。
⑥四女イク(郁)
明治2O年、東京麹町で生まれる。11才の時、大分市稲荷町にてはしかに罹り、高熱のため脳膜炎となり、夢遊病者となる。母は紐で手と手を繋ぎ拘束。明治31年10月15日、大分で12才没。両親は不憫に思い、火葬せず、萬壽寺境内に土葬。「郁子之墓」建立。
⑦五女トミ(富)
明治23年8月17日、大分で生まれる。大分市長浜東の安部太市と結婚。大正9年、3l才の時太市没。大分師範学校付属小学校の先生をして生計。女子2人、男子1人を育てる。長女文子は筑紫和臣氏と結婚。その長男がニュースキャスターをした筑紫哲也。二女美代子は大坂の西田氏と結婚。昭和36年、トミ70オの時、瀧の家族を「荒城の月影に」と題して著す。
⑧三男孝三郎
明治26年10月11日、竹田で生まれる。3才の時、大分に移住。小学校、大分中学を主席で卒業。大坂高等工業学校無試験入学の秀才。卒業後、大坂の工業会社に勤めたが、京大電気科の青柳教授の誘いで京大に勤務。後、友人の会社のため社長を継ぎ、飛行機の鉛粉電池の開発をし特許取得。妻は、土屋元作の長女モト子で、バイオリニスト。長男が弘正で横浜にいたが没。長男の妻や息子たち健在。モト子死後、使用人の女性を後妻にし、知行と真生の2男子生まれ、知行71才は京都で、真生67才は東京で健在。昭和5年6月15日31才京都に没。大分市萬壽寺に葬。
■廉太郎自作の詩「古城」について
・外堀は田にすきかへされ
明治24年、国道35号線 (今の10号線)の工事の時、堀から南へ道路を一直線にし、「藤原口門」も無くし、西教寺前を通り、松野の所から直角に折れて西八日市まで一直線にした。その時、堀の「堀の溜池」の水を抜いて平地に整地し、一面を全て田にした。この頃、廉太郎は12才であった。それ以後に、廉太郎が日出に来た時、溜池や外堀がなくなり、埋められて田になっていたので、変貌に驚いたことと思う。
・橋杭朽ちて
瀧家のあった三の丸から歩いて二の丸に向かうと、中堀に橋がかかり、「中門」がある。この木橋が朽ちていたのではないかと思う。
・一の木戸か 二の木戸か
「一の木戸」は、藤原口門・八日市口間・三の丸口門・浜口門の4か所あり、城から遠い所の門。
「二の木戸」は、外大手門・中門の2か所あり中堀辺り。
「三の木戸」は、大手門・裏門・搦手門の3か所あり、内堀辺り。
廉太郎は、この木戸がいずれの木戸かはっきり把握していないが傷んでいたのだろう。あわれに思えたのだろう。
・麦秀で 菽實る
藩校「致道館」の南側一帯は畑(今の日出中学校運動場)で、麦や豆を作っていたのだろう。致道館は、サザンカの大樹の前にあった。
・君侯の住みなれし大殿いづら
城内の殿様の御殿もなくなり、小学校になっていて、今ほどこにも見られない。どこへ行ったのだろうか・・・と。
・狐なくあなた出丸の跡
稲荷社が城の西側の石垣崖下にある。伝説によると、三代将軍徳川家光が歿した直後に「慶安の変」があった。由井正雪が幕府転覆を企てた。日出瀋2代藩主木下俊治公が加担して、連判状に署名していたという。一大事。それを知ったこの稲荷社に住む狐が、俊治の名前を消して、難を逃れたという伝説のある稲荷社である。廉太郎も伝説を聞いていたのではなかろうか。それで、「狐なく・・・」としたのではなかろうか。
・千本の松
日出藩初代藩主木下延俊公は、毎年正月5日、「松の日」と定め、城下はもとより、藩内全域に、逐次、毎年松苗を植えさせた。代々続き、幕末まで継続した。日出城は別名「松城」とも言った。日出藩は城周辺だけでなく、どこへ行っても松の木の多い藩であった。それが、明治になると途絶え、荒廃して行った。廉太郎の目にも、そう映ったのであろう。
・帆足萬里先生の三の丸塾(別名「松郭塾」)は周囲が松の木で囲まれていた。それで外大手門にある時鐘の音が風向きによっては、聞こえなかったという。それで、門人が振り子時計を先生にプレゼントしたという逸話がある。日出瀋は「松の木藩」でもあった。
・以上、この詩は、廉太郎が 「日出城」を思って「古城」としたと確信する。
■大分合同新聞 東西南北 2015.6.25
瀧廉太郎(1879~1903)の自筆の詩に「古城」というのがある。日出町がこれに曲をつけたCDを作って売り出したと言う。さっそく聴かせていただいたが、しっとりした旋律と歌唱はなかなかのものだ。
「古城」は廉太郎が「荒城の月」(1900年)の曲想を練るため、資料として前年に自分で作詩したものだという。(小長久子著「瀧廉太郎」)。「荒城の月」の作詩はご存知土井晩翠で、その詩想は晩翠ゆかりの会津若松・鶴ヶ城か仙台・青葉城だとされる。一方、廉太郎の曲想はゆかりの大分・府内城か竹田・岡城ではないかとされている。
ところが、この「古城」は『外堀はたにすきかへられ・・・内堀は年毎にあせて二百年の名残やなに・・・』と始まっているのだ。地元の郷土史家・魚住修三氏の最近の調べでは、明治時代に日豊本線と国道10号の工事で外堀が田にすきかえられたのは日出城(暘谷城)だという。
瀧家は代々日出藩の要職にあった。廉太郎は東京で生まれ、小学生時代は日出出身の父母と一緒に大分、竹田と移り住んでいるから、その4年余りの間に日出を訪れていても不思議はない。日出の親戚の家に来た廉太郎と前の城跡でかくれんぼをして遊んでいたという地元の古老の証言も残っているくらいだ。
有力な調査結果はほかにもあり「荒城の月」の候補としてどうやら日出城が無視できない存在になりつつあるようだ。6月29日は廉太郎の命日である。
■豊太閤
・廉太郎が作曲した「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」の3曲のことは、よく知られているが、「豊太閤」を聴いたことがない。「荒城の月」はよく聴くのに、なぜかだれも歌わない。どんな曲かさえも、だれも知らない。以前から日出フラウエンコールの堀義孝先生に、「一度歌って、聴かせてほしい。」と、お願いしているが、まだ歌わない。なぜだろう・・・?。
・「豊太閤」は豊臣秀吉のことで、秀吉を称えた歌詞である。時の東大総長が作った詩である。その詩に、廉太郎が曲をつけたのである。
・廉太郎の父吉弘は日出藩士であり、祖父平之進は家老で、代々日出藩の重臣である。木下家を通して、豊臣秀吉に通じ、曲想の根底にあると想う。
・日出藩初代藩主木下延俊公の父「家定」は、豊臣秀吉の妻「おね」の兄で、近い親戚である。豊臣氏が断絶した後、木下氏が継いだのである。
・日出藩内の鳥居も「豊臣朝臣木下○○」と、「豊臣」を名乗っている。
・これらの深い関係にある「豊臣家と木下家」「日出藩」「その家臣」を思う¥とき、廉太郎の気持ちは、「豊太閤」=「日出藩主木下家」=「日出藩」そのものだと思う。
・ぜひ、日出町民に「豊太閤」の曲を聴かせてほしい。「豊太閤」は、日出の歌そのものである。
■瀧廉太郎先生115回忌辰祭にあたり
平成29年6月29日(木)10時 龍泉寺 萬里を読む会 魚住修三
※廉太郎の生誕日は、明治12年(1879)8月24日、東京府芝区(現港区)佐久間町2の18番地(現西新橋2丁目)。東方に、新橋駅がある。
※4代瀧暉吉(家老)を「輝吉」とあるのは間違い。6代瀧吉亨(郡代・廉太郎の曾祖父「吉亭」とあるのは間違い。(顕彰会の財津定行氏の誤りで、要注意)※両親は音楽学校入学反対。廉太郎は歌舞伎役者の女形になろうとした。従兄弟の瀧大吉と後藤先生が推してくれ、上京して大吉の家にいた。後藤先生の娘が杵築の下司の是久中佐の奥さん。下司にいるその孫が聞き伝え、魚住が又聞きした。
■廉太郎と教会・堅信・洗礼・礼拝・賛美歌
・明治22年(1889)、麹町区(現千代田区)上二番町1番地(現二番町)にキリスト教の「博愛教会」創立。
・明治32年、大吉の家族と廉太郎は教会近くの22番地に引っ越す。
・音楽学校では、西洋音楽を学ぶ生徒の男子30人中20人はキリスト教信者となっていて、西洋音楽を究めたいとする風潮があった。
・音楽学校の女生徒高木チカ(後に杉浦貞次郎と結婚。貞次郎は後に立教大学総長となる)が、廉太郎にキリスト教入信を勧める。
・明治33年6月12日、ドイツ留学が決まる。
・同年10月28日、21才の廉太郎は、「博愛教会(グレース・チャーチ)」で堅信(入信)。11月7日、久留米出身の元田作之進牧師の導きで洗礼。当時、教会は聖堂建設中で、廉太郎の堅信は静修女学校の校舎の一部を借りていたので、その校舎で行われた。
・11月、聖堂が竣工し「博愛教会」は「聖愛教会」と改名。廉太郎は新築の聖堂で洗礼。聖餐に61人出席。牧師と廉太郎は九州同志で意気投合。
・毎主教日には、廉太郎は礼拝し、マキム主教に導かれ、讃美歌を歌った。
・聖愛教会は、後に移転して、現在は世田谷区の砧(きぬた)にある。
※廉太郎の「荒城の月」の作曲には、讃美歌の影響があると言われている。
以上は、大分市の萬壽寺の「瀧累世之墓」と「郁子之墓」を安部トミさんから墓守を受け継ぎ、日出に遷座するまでの30年間以上管理して来られた、廉太郎の妹スミさんの孫に当たる浅野喜代子様(平成27年秋没)が、魚住修三にくださった資料を基にし、まとめてみました。本日列席の皆様方にご紹介し、これを差し上げます。
※豊岡の立木稠子先生の祖母が東京音楽学校で、廉太郎の2年先輩だったと、稠子先生からお聞きし、当時の一端を知りました。
<参考文献・その他>
石井邦猷・・・日出藩御家中系図・日出藩御家人帳・日本の歴代知事
日出町誌・日出年代史・日出町商工会史・妙光寺墓地
城下町日出ふるさと歴史散歩・妙光寺位牌堂・妙光寺
坊守住職談話・石井正夫氏談話・石井由一氏談話
日本陸軍将官総覧
瀧廉太郎・・・大分県先哲叢書瀧廉太郎・同普及版・荒城の月影に
瀧廉太郎・瀧家と土屋家・大分合同新聞記事
竹田の月・天才音楽家瀧廉太郎21世紀に蘇る
土屋元作・瀧廉太郎と大分・キリスト教新聞
(質問)日出で生まれ、県外に出、帰郷して現在に至るまで日出の事に対して無知な事が多いです。
最近こんな素晴らしい自然や歴史が他の所と比べ類をみない事を感じています。
瀧廉太郎の「荒城の月」は暘谷城からみた海の洋々とした旋律と思っているのは私だけでしょうか?
(回答)瀧廉太郎は少年の頃、父と色んな所(約5ヶ所、東京、横浜、富山、大分、竹田)で生活をしている為、本当の事はわかりませんが可能性はあります。
今日は、貴重なお話をありがとうございました。こうして、自分の職業とは別の分野の話を聴くこともロータリーならではないかと感じました。機会がありましたら、また、卓話をよろしくお願いいたします。
魚住修三様 | |