事務局 〒879-1506 | |||
大分県速見郡日出町3904-6 | |||
医療法人 久寿会 鈴木病院 | |||
TEL:0977-73-2131 FAX:0977-73-2132 | |||
会長 | 山 田 滋 彦 | ||
副会長 | 上 野 公 則 | ||
幹事 | 鈴 木 貫 史 | ||
広報委員長 | 佐 藤 英 隆 |
山田 滋彦
皆様、今晩は。先週は、ガバナーエレクト岡村泰岳氏をはじめ、大分中央RCの多数のご来訪で久しぶりの大賑わいで楽しい例会と親睦会でした。会員の皆様、ありがとうございました。
さて、12月は家族月間です。RI会長のカルヤン・バネルジー氏がロータリー奉仕事項の3つの強調事項として家族・継続・変化を上げ、その中の1つが家族であります。家族から始まって地域社会を形成するわけであり、ロータリーの奉仕には家族の皆様の協力、応援が不可欠であることは云うまでもありません。皆様方の家族を大事にしてください。
今日の会員卓話は佐々木会員が「松山の思い出」のお話です。後程宜しくお願い致します。
さて、今日は9月3日(土)に県医師会館にてかかりつけ医認知症対応力研修会に出席し、4時間上の缶詰で勉強して参りました。皆様は、認知症のことは日常たびたび報道されていますからある程度のことはお分かりでしょうが、認知症とは、一旦正常に発達した知能が病気や障害によって持続的に低下し、生活する上で支障が出ている状態を云います。現在日本で450万人の患者さんがいて年々増加しています。
認知症には4つの種類がありますが、その中でアルツハイマー型認知症、脳血管性認知症の2つが主に云われており、みられる症状は中核症状
これからますます高齢化が進み、家庭でこのような症状がみられる場面に遭遇されたら認知症の可能性があり、年のせいではありませんので、早めの発見、診断、治療が大切ですので早めに相談、受診させてください。
以上で会長の時間を終わります。
中津中央RC | 12月20日(火) | 『中津3クラブ合同忘年例会』のため18:30~『グランプラザ中津ホテル』へ変更 |
12月27日(火) | 定款第6条第1節に基づき休会 |
後藤秀紀様(杵築RC)(S) | ニコボックス致します。 |
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鈴木貫史会員(W) | 本日ロータリーよりの花の贈り物を妻に頂きました。ありがとうございました。 |
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本多和夫会員(S) | 先日、家族で豊後高田市の「昭和の町」へ行って参りました。きっかけは、会員卓話で「昭和の町」について学んだからでした。子供もすごく喜んでくれて、楽しい時間を過ごす事ができました。ありがとうございました。 |
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吉弘秀二会員(S) | 12月6日に65回目の誕生日を迎えることができました。大過なく迎えることができたことに感謝です。 |
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サラリーマン生活で転勤は付き物ですが、東西日本の都市で住めるのもいいものです。1990年頃は四国松山にいました。二人の子供がまだ小学校に入ったばかりと入る前で、心に残る子供たちの想い出がありますが、本日は少し違った意味での思い出の話をします。
ある日、市のホールで映画「無法松の一生」(1943 監督 稲垣浩)を観ました。どうして小倉の無法松が松山で、と思いましたが、そのシナリオ作家に理由があった訳です。当時は伊丹十三監督の映画がブームでしたね。「お葬式」「マルサの女」「ミンボーの女」等アイデア豊富な題材で、しかも細かい部分までのこだわり、社会的視点がしっかりしてしかも面白い。伊丹十三は俳優としては助演クラスでしたが、監督としては映画史に残るでしよう。
そのおとっつぁんが「無法松」のシナリオ作家伊丹万作です。映画は、庶民の松五郎が軍人の将校の家に出入りするようになって、小さい息子との交流を深め、息子の父親が戦死した後の息子と夫人との交流の中で、次第に未亡人に心を寄せるというものですが、当事の検閲に相当のシーンがカットされ、伊丹の思いは達せられたとはいえなかったようです。
驚いたのは、その後松山市内の図書館で読んだ「伊丹万作集」(筑摩書房)の中のエッセイにある「戦争責任について」でした。戦後の1946年に書かれていたものですが、これほど戦争中の国民の心情を現した文書は読んだことはありません。みーんな上のせい、隣のせい、被害者だ、騙されたんだと言っていると言うんですね。責任は個々人にあることを明確に言っているわけです。今でも貴重な出会いをしたと思っています。
その義理の息子のノーベル賞作家、愛媛出身の大江健三郎は、この9月には福島原発の集会・デモの先頭に立っていましたね。
松山市は、愛媛県の中央部、松山平野にあり、東は西日本の最高峰石鎚山を擁する四国山地を背景とし、西は波静かな国立公園瀬戸内海が望めます。松山の名は、慶長8(1603)年加藤嘉明が築城した松山城にちなみ、名付けられたと言われています。
明治6年愛媛県庁が設置され、県都となり、明治22年12月15日市制を施行以来、政治・経済の中心都市として成長し、また、俳人正岡子規をはじめ、多くの文人を輩出するなど地方文化の拠点としての役割を果たしてきました。
昭和20年、市街地の大部分を戦災により焼失しましたが、今日では総合的な都市機能を備え、平成12年4月には中核市へと移行し、平成17年1月には北条市・中島町と合併し四国初の50万都市となりました。
地勢は、北西部の瀬戸内海に浮かぶ中島から高縄山系のすそ野の平野を経て、重信川と石手川により形成された松山平野へと広がっています。市の南側には東西に走る中央構造線上に道後温泉が湧出しています。市域面積は429.05平方キロメートルです。
気候は、温暖な瀬戸内海気候に属し、積雪や自然災害も極めて少なく、絶好の自然条件を備えています。太平洋側の高知県に比べ台風の通過も少なく、穏やかで恵まれた気候条件です。年平均気温 摂氏16.5度 年間降水量 約1,300mmです。
市役所は、東経132度46分・北緯33度50分の位置にあります。
※出典:松山市ホームページ
1943年10月28日公開。製作は大映。全長は99分あったが、内務省による検閲(日本における検閲参照)で松五郎が未亡人に想いを打ち明けるシーンが10分カットされた(時局柄軍人の未亡人の恋愛は戦地の将兵の士気を挫くと考えられ、このシーンはリメイクでも再現されなかったが、却って映像化された生々しい場面を排除することが出来、松五郎の心情表現に含みを持たせることが可能となり、観客の共感を招くことになった)。この時検閲官は「本当はこれをカットするのは惜しい。あと何年かすれば戦争も終わるだろうからそれまで保留という扱いにしたらどうだろう」と言ったが会社側はカットしてでも公開しろという意向だったため、稲垣は泣く泣くフィルムをカットした(このシーンのフィルムは失われており、スチール写真のみが現存する)。さらに戦後占領軍による検閲で封建的だとされたシーン(吉岡敏雄が学芸会で唱歌「青葉の笛」を歌うシーン)が8分カットされた。
なお、最近になって後者のカットされたシーンが宮川一夫の遺品の中から発見され、2007年9月28日にカットされたシーンが特典映像として収録されたDVDが角川エンタテインメントから発売された。
宮川一夫のカメラ [編集]また、この映画のラスト近くで、無法松が夢うつつの中で過去を振り返るシーンが出てくる。映像としては、無法松の顔や、人力車の走行シーンや、祭りの情景などが、カット割りせずに画面上に現れては消えるものである。現在では「ビデオ編集機」等でそれほど困難なく実現できる映像であるが、1943年当時にはそのような機器は存在しないし、フィルム合成の技術もそこまで進んでいなかった。
そこで、カメラマンの宮川一夫は、カメラからフィルムを取り出さずに「撮影→巻き戻し→再撮影……」を繰り返す「多重露光」を行うことで、この幻想的な映像を撮影した。撮影時の露出調整やタイミングが合っているかは、撮影がすべて終わって現像するまでわからない。撮影中のスタッフのストレスは相当なものであったという。
※出典:Wikipedia
『最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。』・・・・・・・・・・・・・・・(以下略)
『少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下略)
『もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。』・・・・・・・・・・・・・・・(以下原文続く)
※出典:インターネット図書館「あおぞら文庫」
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