事務局 〒879-1506 | |||
大分県速見郡日出町3904-6 | |||
医療法人 久寿会 鈴木病院 | |||
TEL:0977-73-2131 FAX:0977-73-2132 | |||
Mail:info@suzuki-hp.or.jp | |||
会長 | 秋 吉 尚 康 | ||
副会長 | 吉 弘 秀 二 | ||
幹事 | 臼 杵 徳 二 | ||
広報委員長 | 佐 藤 英 隆 |
例会日 | 火曜日 | 19:00 | |
会 場 | 日出町 | 別府湾ロイヤルホテル |
■ 出席報告 | 上村昌宏会員 | ||
会員総数 | 16名 | ゲスト | 0名 |
会員出席数 | 12名 | ビジター | 0名 |
会員出席率 | 80.0% | 出席者数 | 12名 |
前々回出席率 | (1月13日) 93.3% |
修正出席率 | (1月13日) 93.3% |
100%連続回数 | 0回 | 100%通算回数 | 373回 |
出席免除会員 | 山田滋彦 |
● メイクアップ | |
事前 | |
事後 | |
● 欠 席 | 上村昌宏会員、本多和夫会員、矢野正二郎会員、山田滋彦会員 |
点鍾 | 19:00 |
ロータリーソング | 手に手つないで |
ゲスト | |
ビジター |
会長 秋吉 尚康
皆さん今晩。本日は、1月最後の例会ですが、先週の火曜日より大きな事件が発生しました。それは、二人の日本人がイスラムの国に身柄を拘束されました。一人は8月に囚われた湯川遥菜さんです。さらに、湯川さんを助ける為に11月には後藤健二さんが危険な地域へガイドの警告するのを顧みずイスラム国へ侵入したところ身柄を拘束され、日本の国に対して2億ドル(235億円)身代金を要求して来ました。しかも72時間のタイムリミットがあり、日本時間1月23日の14時50分までした。残念ながら1月25日の未明には湯川遥菜さんが殺害され、その湯川さんの写真を後藤健二が手に持つ姿がインタ-ネットで流れました。
最近のイスラム諸国はアメリカの空爆により兵士や資金不足になり、更に原油価格の暴落により80%の減産なり生産価格が1億800万円から2500万円まで下がりました。その後イスラム諸国は身代金の要求を撤回して、ヨルダン国が拘束している女の死刑囚とイスラム国が確保しているヨルダンのパイロットと日本人の後藤健二さんとの身柄引き渡し交換を要求して来ました。私達の日出クラブも1日早く後藤健二さんが元気な姿で日本に帰国出来る事を願っています。
皆さん、日出クラブの中には、外国へ良くいかれる方がいますが、人が警告する危険な外国には出来る限り行かないで下さい。日出クラブの会員が無事に帰国出来る事を祈りながら、私の卓話と致します。
以上で会長の時間を終わります。
中津RC | 1月28日(水)の例会は『職場例会』の為、『㈱ナカノ』へ変更 |
湯布院RC | 1月28日(水)の例会は『大分第3グループIM』の為、1月31日(土)14:00~『亀の井ホテル』へ変更 |
別府東RC | 1月29日(木)の例会は『大分第3グループIMリハーサル例会』の為、12:30~『亀の井ホテル2F 由布の間』へ変更 |
2月5日(木)の例会は『大分第3グループIM』の為、1月30日(土)14:30~『亀の井ホテル2F 由布の間』へ変更 | |
大分南RC | 1月30日(金)の例会は『夜の親睦例会』の為、18:30~『未定』へ変更 |
2月20日(金)の例会は『職場訪問例会』の為、11:30~『能楽堂』へ変更 | |
大分1985RC | 2月2日(月)の例会は『日出RCとの合同例会』の為、2月3日(火)19:00~『別府湾ロイヤルホテル』へ変更 |
2月16日(月)の例会は『全員協議会(夜例会)』の為、19:00~『場所未定』へ変更 | |
竹田RC | 2月3日(火)の例会は『家族例会』の為、1月31日(土)18:00~『ホテル岩城屋』へ変更 |
大分RC | 2月10日(火)の例会は『夜間例会』の為、18:30~『大分オアシスタワーホテル』へ変更 |
大分城西RC | 2月25日(水)の例会は『R財団プロジェクト』の為、2月22日(日)へ変更 |
大分東RC | 2月26日(木)の例会は『夜の例会』の為、18:30~『丸福』へ変更 |
1月21日(水) 18:30~ 「鈴よし」にて開催されました。各RCの会長・幹事そして、IMに登壇するパネラー、ゲストとして地区広報・IT部門長の片山氏、副委員長の早水氏も出席していただきました。
主な議題は、31日(土)に行なわれますIMの件です。
・ 次第の確認
・ 第2部のパネルディスカッション
・パネリストの役割並びにタイムスケジュール
・ 各RCの参加者並びにゲストの確認
などを審議しました。
ホストクラブとして、別府東RCが献身的にお世話してくれております。会員相互の親睦と知識を広めるためにもぜひ出席して、ロータリーの素晴らしさを実感し、自らの意思で新しい一歩を踏み出していただければ幸いです。
ロータリー財団より鈴木貫史会員へポール・ハリス・フェローの称号が授与されました。(2回目の授与となりますので、マルチプル・ポール・ハリス・フェローとなります)
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ポール・ハリス・フェロー:
年次基金、ポリオ・プラス、承認された財団補助金のいずれか
に1,000ドル以上を寄付した方。
・1月26日(月)大分1985RCの例会に出席し、合同例会の件を報告して来ました。
・3月3日(火)の外来卓話の件ですが、株式会社アドコンセプト代表の飯田裕美
(企業コンサルタント)に受けていただきました。
「日出町すすんでしよう善意行動と表彰」についてです。
本日、出欠の確認を行いますので、よろしくお願いします。
表彰状の方は、現在、クリエイツ様の方で作成して頂いており、校正の為のサンプルの連絡待ちです。
鈴木貫史会員(W): | 『日本の夜明けから最新医療にまで龍馬は如何に寄与したか?』のタイトルとしましたが、うまく説明できないところもありますので、前もってニコボックスします。 |
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臼杵徳二幹事(S): | 2月13日(金)に日出小学校4年生のフラワーアレンジメント教室を開催する事になりました。
町長、教育長に花(アレンジ)をプレゼントした成果がでたのでは? |
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坂本龍馬と言えば、たくさんの詞(和歌など)が残っております。
テレビのコマーシャルとしても使われております。
龍馬を愛する歴女たちを含め、勉強を続け、研究し、龍馬の歩んだ道、成したことを愛するたくさんの同好の方々が居ます。私もその一人であります。
今回、医者のはしくれでございます私が、『日本の夜明けから最新医療にまで龍馬は如何に寄与したか?』と言う卓話を掲げ、少しでも皆様の御批評を頂きたいと思います。
徳川幕府が大政奉還し、明治維新が成功した後のわずか約150年で日本の医学は世界の最先端と肩を並べ、一部には世界をリードするまでになりました。臓器移植医学において、日本での脳死という困難な問題がありましたが、生体肝移植など、より技術を高め、その他の移植医療においても、世界の先端と肩を並べるまでになっております。更に、内視鏡下手術の分野では世界をリードしております。また、ダ・ヴィンチ(da Vinci Surgical System)”という内視鏡下手術支援ロボットが米国で販売されてより、日本でもあっという間に泌尿器科、消化器外科をはじめ、研究・臨床・応用されております。HAL®(Hybrid Assistive Limb®)といった、サイボーグ型ロボットも日本の筑波大学を中心に研究・臨床・応用されております。
更に、京都大学 山中伸弥教授のiPS細胞にいたっては、再生医療という生命科学の分野において、世界をリードしています。
龍馬が江戸にてペリー率いる黒船(蒸気船)におどろいた時、英国にて起こった産業革命(1733年ごろジョン・ケイによる綿織物の機械化に始まり、水力紡績機→蒸気機関が発明され、機械工業・製鉄業・石炭業などの技術革新)からすでに100年を経過しておりました。龍馬はこの時から変わるのです。成長していくのです。たくさんの人(師)よりいろんな世界のことを教わり、それをつなぎ合わせて日本を変え、いつかは世界に羽ばたこうとしたのだと思います。
左の写真は、龍馬のもっとも有名な写真で、長崎時代に写真家 上野彦馬氏によって撮影されたもの。右の写真は、昭和62年、龍馬の最後の写真として公表された。慶応3年(1867年)越前(福井)で撮られたものです。
勝海舟という龍馬にはなくてはならない存在である師にめぐり合うことが出来ました。勝海舟の弟子として、片腕として日本中を駆け巡ったのです。
左が若い頃の勝海舟の写真、右が晩年の写真。
海舟はすでに咸臨丸にて米国に渡り(1860年)、
世界の一端(産業や民主主義など)を垣間見た、
幕府の中でも少数の開明派でした。この海舟によ
り、さらなる人脈(仲間)を作ることが出来ました。
わずか33年の龍馬の人生ですが、「少年期」「青年時代」「脱藩」「亀山社中時代」「大政奉還へ」の5つに分かれています。
【少年期】
坂本龍馬は、天保6(1835)年11月15日※、高知城に近い本町1丁目(現在の上町1丁目)に生まれた。
14歳になると龍馬は日根野道場へ入門し、小栗(おぐり)流の剣術などを習い始め、めきめきと腕前を上げ、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけた。
剣術修行のため嘉永6(1853)年3月に高知を出発した龍馬は、江戸三大道場の一つである北辰(ほくしん)一刀流の千葉定吉(さだきち)道場へ入門した。
【青年時代】
同年6月3日には、ペリー率いる黒船4隻が浦賀に来航し、龍馬も品川の沿岸警備に動員された。その頃父・八平に宛てた手紙では、「もし戦争になれば異国の首を討ち取って土佐へ帰ります。」と攘夷(じょうい)思想を表していた。しかし、1年後に修行を終えて帰ってきた龍馬は、秋に河田小龍(しょうりょう)を訪ねて、世界と対等に付き合うため、日本には大きな船とそれを動かせる人材が必要だと教えられ、攘夷の間違いを悟った。
文久元(1861)年、27歳になった龍馬は親戚でもあり親友でもある武市瑞山(たけちずいざん)率いる土佐勤王党に加盟する。この年の秋、武市の密書を持って萩(山口県)の久坂玄瑞(くさかげんずい)のもとを訪ねた。久坂から、いまや大名も公卿(くぎょう)も頼りにならず、これからは草莽(そうもう)の人々(志のある在野の人々)が立ち上がらなければいけないと教えられ、翌年2月に土佐へ帰り、その翌月には脱藩をしてしまう。
【脱藩】
文久2(1862)年3月、28歳で脱藩した。そして、この年の秋江戸へ出て、幕府の軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)である勝海舟(かつかいしゅう)の弟子となった。
その後、勝は幕府から大坂湾周辺の海防を命ぜられ、その一環として神戸に海軍操練所を建設する。龍馬もそれに同行し、操練所に併設された勝の私塾に入門した。そこで勝の片腕として働くかたわら、海軍の修行に励んだ。
元治元(1864)年8月中旬には勝の使者として西郷隆盛(さいごうたかもり)と面会した。
【亀山社中時代】
勝の弟子となり順風満帆(じゅんぷうまんぱん)であった龍馬だが、元治元(1864)年6月5日、京都で池田屋の変が起こり、状況が一変した。
池田屋に集まる過激な尊王攘夷(そんのうじょうい)の志士たちが、新選組の近藤勇(いさみ)らによって一掃され、この中に海軍操練所(そうれんじょ)からも参加者がいた。さらに、7月に禁門の変が起こり、この時にも長州藩(ちょうしゅうはん)側として繰練所の生徒が参加していた。これらが幕府の怒りを買って、勝は江戸へ呼び戻され、操練所も勝塾も閉鎖となる。
龍馬たち脱藩浪人は行き場を失うが、翌年薩摩藩(さつまはん)の庇護(ひご)の下、長崎で亀山社中(かめやましゃちゅう)という商社を作った。
慶応2(1866)年1月21日、龍馬はこの組織を使って、当時非常に仲が悪かった薩摩藩と長州藩の手を結ばせる薩長同盟を成功させた。
これにより、幕府に対抗できる勢力が誕生したことになり、それを画策(かくさく)した龍馬は幕府から危険人物としマークされることになった。
薩長同盟成立の2日後、伏見の寺田屋に泊まっていた龍馬は、伏見奉行所(ふしみぶぎょうしょ)の役人に踏み込まれた。しかし、寺田屋で働いていたお龍(りょう)の機転と、ボディーガード役の長府藩士・三吉慎蔵(みよししんぞう)に助けられ、薩摩藩邸に逃げ込むことができた。
【大政奉還へ】
慶応2(1866)年7月には、第二次長州征伐が起こり、亀山社中は長州藩を助けるため、薩摩藩名義で購入したユニオン号で参戦した。
また、龍馬は蝦夷(えぞ・北海道)の開拓や、島根県沖の竹島の開拓を考えたり、11月には薩摩藩と長州藩の合弁(ごうべん)の商社設立を画策したり、経済人としての本領も発揮していた。
この龍馬に目を付けたのが土佐藩だった。薩摩藩と長州藩に遅れをとっていた土佐藩は、慶応3(1867)年1月、当時土佐藩政の実権を握っていた参政(さんせい)・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が長崎で龍馬と会談を行う。倒幕(とうばく)を目論(もくろ)む龍馬も、土佐藩を引き込むことは有利になると考え、後藤と手を結び土佐藩に復帰した。これにより、亀山社中は海援隊(かいえんたい)と名前を変え、土佐藩の組織となり、龍馬は海援隊隊長に就任した。
同年6月頃からは、薩摩藩と長州藩が武力討幕を考え始める。土佐藩は武力討幕を避けたい考えで、その策を龍馬に求めてきた。龍馬は後藤に土佐藩船夕顔の中で、大政奉還(たいせいほうかん)を盛り込んだ8つの策を提案した。船中八策である。後藤はこれを前・土佐藩主山内容堂(やまうちようどう)に進言し、容堂が15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を建白し、これを慶喜が受け入れ、10月14日に政権を朝廷に奉還した。
龍馬はその1ヶ月後、33歳の誕生日に京都の近江屋(おうみや)で暗殺された。
人物相関
土佐藩 山内容堂、後藤象二郎、吉田東洋、板垣退助、佐々木高行、岩崎弥太郎、坂本権平、
坂本乙女、ジョン万次郎
土佐勤王党 武市半平太、中岡慎太郎、吉村寅太郎、那須信吾、岡田以蔵
師 日根野弁治、千葉定吉、千葉重太郎、佐久間象山、河田小龍
海援隊士 近藤長次郎、沢村惣乃丞、高松太郎、池内蔵太、長岡謙吉、陸奥宗光、白峰駿馬、
溝渕広乃丞
朝廷 岩倉具視、三条実美、姉小路公知
幕府 勝海舟、大久保一翁(忠寛)、徳川慶喜、 永井玄蕃頭(永井尚志)
福井藩 松平春嶽、横井小楠、由利公正(三岡八郎)
長州藩、長府藩 木戸孝允(桂小五郎)、 高杉晋作、伊藤九三、三吉慎蔵、久坂玄端、
伊藤博文(俊輔)
薩摩藩 西郷隆盛、小松帯刀、大久保利通、吉井幸輔、五代友厚(才助)
長崎 上野彦馬、小曾根英四郎、大浦慶、白石正一郎、お元
外国人 トーマス・グラバー、アーネスト・サトウ、ハリー・パークス
京都 お龍、お登勢
龍馬は、「船中八策」を通して日本の未来を描き、その後歴史に残した功績は、皆さんもご存知のように薩長同盟と大政奉還があります。
私は海舟の他に河田小龍・松平春嶽・横井小楠・大久保一翁(忠寛)・西郷隆盛・木戸孝允(桂小五郎)・後藤象二郎など...たとえそれが、幕府方であろうが、長州や薩摩の人間であろうが、また外国人であろうが、龍馬は誠意を持って接する事で、いろんな考え方や知識を吸収し、龍馬という人間が構築されていったものと思われます。
※成書には、”4つの能力” ①他人のアイデアの脚色力、②人を見抜く力、③他人の能力を発揮させる力、④必要な人の利用力
“3つの特性” 柔軟性 先見性 公共性 が指摘されております。
「類まれなる想像力、統率...」の人とされ、非凡な才能を称えられる坂本龍馬ですが、一介の浪人が大政奉還を成すなど明治維新の立役者となった本当の力は、この“4つの能力”と時勢をしっかりよみながら、それにあわせて自分を変えた“3つの特性”があったとも分析されており、龍馬の人間学として発表されてもいます。
龍馬はまた多くの人に魂を吹き込み、夢や希望を与えました。
産業の分野では、同郷の士 岩崎弥太郎が三菱を作り発展させ、木戸孝允、西郷隆盛の政(まつりごと)の道に魂を吹き込み、陸奥宗光や伊藤博文が確実なものとし発展させた。そして法や学問の分野でも世界に目を向けることの必要性を説いた。その後多様性をもつ学問・文化が花開いたのです。
以上から、医学の分野でも近年のこの発展は、龍馬のように世界に目を向け、いち早く世界のことを吸収し、日本のみならずグローバルに活躍する人の中には、”龍の魂”に導かれた人がいると言うのは少しいいすぎでしょうか。
※参考文献:坂本龍馬の真実(一個人特別編集:KKベストセラーズ)
龍馬伝 京都幕末地図本(ユニプラン)
参考資料:
幕末、文久4年(1864年)オランダ、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国の下関砲撃中止の交渉のため、幕府から長崎出張の命を受けた勝海舟は、海軍塾の塾頭である坂本龍馬を連れ立って神戸を出帆し2月15日に佐賀関に上陸、佐賀関の徳応寺に宿泊、佐賀関街道を通って、翌16日は鶴崎に宿泊、肥後街道を通って17日には野津原に宿泊し肥後街道を通って、熊本に行き、その後長崎に向かう。